僕らのこころは「ひとつ」になった。
2025年、当時の日本総裁が提案した”GDP(国民総生産)からGDH(国民総幸福)へ”
と表紙に書かれた提案書が全ての始まりだった。
国民は世界で流行する感染症の影響で心身が疲弊。
それにより、日本経済は悪化の一途をたどった。
その状況を打開するために打ち出された”Well-being政策”は、「国民が肉体と精神、社会的に健やかな状態で生活できる社会」を掲げ、疲弊した国民の心を打った。
国民の進むべき道を提示するため、文部科学省は「Well-beingマニュアル」を教科書として発行。
各企業は企業の成長と、社員のさらなる自己実現のため、声や表情を含むバイタルデータを取得し、より綿密なサポートを行った。
さらに、過度な感情表現は他者と自己を幸福から遠ざけるとされ、
感情を表現する際はマニュアルに従うよう義務付けられた。
マニュアルから外れた行動をとると、罰金や公共サービスの一時的な停止等のペナルティが課せられた。
結果的にWell-being政策は急速に普及することとなった。
30年経った現在ではGDHは上昇、GDPも当時と比べると右肩上がりに上昇した。
僕らの感情は全て数値化され波形になった。
僕らの思想はマニュアルになった。
「響介。あなたの番よ。372ページ、第一章」
「わかってるよ」
僕は眉をひそめ、悴む唇を強く噛み、綺麗に飾られている白色の菊をじっと見つめた。
そうすると、目がじわじわしてきて涙が滲んだ。
これが『悲しみ』だ。
人が死んだ時は『悲しみ』の行動を取るようにマニュアルに書いてある。
書いてあるけど、これで合ってるのかな。
身近な人が死ぬのが初めてだから、僕は余計なことばかり考えていた。
父さん、さようなら。
高校二年生になって、感情のマニュアルを学ぶ授業が週に十五時間増えた。
マニュアルは良い。自分で考えることは疲れるし、周りから浮かなくて済む。
なんでもない五月のある日のことだった。
僕は学校の廊下にキラリと光るものを見つけた。
それは直径25mmほどのガラス玉で、まるで銀河を閉じ込めたかの様だ。
陽に当てるとそのガラス玉はより一層綺麗で、どこまでも輝いて見える。
「あの、すみません。それ私のです」
吸い込まれるように見つめていた僕は、急に現実に戻された。
目の前に立っていたのは、「橘」という名札をつけた、整った顔に目の下と口元に特徴的な二つの黒子がある女生徒だった。
「あぁ。すごく綺麗なガラス玉だね。俺、こんなの初めて見たよ」
「拾ってくれてありがとう。これ、私の宝物なの。・・・ねぇ、あなた今このビー玉のこと綺麗って言った?」
「?ああ。言ったよ」
「これビー玉って言って、遊ぶ以外に何の役にも立たないの」
「そうなんだ。鑑賞するものなんだと思った。色が綺麗だ。宇宙みたいで」
「そう」彼女は優しく微笑んだ。
「私にはいくつか好きなことがあって、このビー玉を眺めながらそのことについて考えるの。
今みたいに何でも管理された社会を生きてると、自分を見失うから。
私は自分の感覚を大事にしたいし、常に私らしくいたい。あなたはーーー」
「ダメだ。そんな話しちゃ。誰が聞いてるか分からない。
君、マニュアルの5ページ 感情についての一章読んでないの?個人が思想を持つことは自由。
しかし、他者と共有する場合は下記の項目を守ること。一つーーー」
「言わなくていいし、知ってるし、その項目は全て守ってる。あなたこそ読み込んでないんじゃない?」
彼女はハァーと大きく息を吐き、うつむいてポツリと言った。
「あなたもつまらない人か。ねぇ、あなた自分自身から逃げてるんじゃない?もっと素直になりなよ」
彼女は僕をじっと見つめてそう言った。
何故だか僕の顔は熱くなっていて、どこか行ってしまいたいのに颯爽と歩く彼女の後ろ姿から目が離せなかった。彼女の言葉が頭に反芻して、その日一日僕は授業を上の空で受けてしまった。
翌日、僕は校舎の中庭でパンを食べている彼女を見つけ、気づいたら走っていた。
自分でも走り出してしまうとは意外だった。
「橘さん。君は変だ。だけど、すごく君のことが気になるし、君を羨ましいと思う。
俺も変なのかもしれない。君と話がしたいんだ」
「愛の告白?」
「まさか」
「どうして私が羨ましいの?友達はいないし、先生からはウザがられてる。あなたは良い人そうだし、何も問題ないんじゃない?」
「確かに何も問題ないよ。でも、昨日君が俺をつまらない、逃げてるって言ったじゃないか」
「私が言ったことが全てなの?」
「違う。君と話すのって難しいな。わけがわからなくなる」
「そう。私も私自身がよくわからないの」
「え?」
「ねぇ、あなた音楽って聴く?」
「あぁ。たまに聴くけどそんなに詳しくないよ。AIが作った音楽ってどれも同じに聞こえて」
「そ。それじゃあ、放課後にこの場所集合ね」
彼女はスッと立ち上がり、片眉を釣り上げて訝しそうな顔で僕を見た。
これは『不快』だ。
「それじゃあ、またあとで」
彼女の表情と言葉はあまりにちぐはぐだったけれど、僕は放課後彼女を待つことにした。
そしてそれは合っていた。
彼女は待って五分もしないうちに現れた。
どうやら彼女は僕をどこかに連れて行く気らしい。
道すがらお互い簡単な自己紹介をして歩いた。
人と会話をする時は、無言になったら天気の話やアイドルの話をして会話を持たせなければいけないが、
彼女はどうやら話したくないようだ。
無言で歩くと街の景色がよく見えた。
「ここ」
そこはchill outと書かれたネオンの看板に、如何にも高校生が好きそうなカラフルなカフェメニュー、
店内は人が多く、写真を撮られた後のアイスクリームはもの悲しげに溶けていた。
僕にとってはとても落ち着ける場所ではなさそうだ。
僕はまじまじと橘を見た。「の地下」彼女は悪戯っぽく笑った。
煌びやかなカフェを横目に廃れた階段を降りていくと、ポツンと灯が灯った花色の扉を見つけた。
足元には純喫茶BEATSと書かれた看板が置いてある。
区画整理で周辺の建物は綺麗なものしかないのに、この空間は歪でどこか美しく、僕の興味を引いた。
躊躇う僕をよそに橘が扉を開けると、僕の耳には聴いたことのない音楽が飛び込んできた。
この音楽は決して聴きやすいわけではない。
楽器を掻き鳴らす手の音まで聴こえてきそうだし、
歌は粗野にも聴こえるし、とても繊細で研ぎ澄まされているようにも聴こえる。
僕は圧倒され、ただ立ち尽くした。
店内の真ん中には赤いレコードプレイヤーが置いてあり、軽快に音楽が回っている。
「音楽って昔は人間が作ってたんだよ。今のAIが作る音楽が悪いとは思わない。だけど、こういう音楽があってもいいよね」
僕は今までに感じたことのない痛みを感じた。
胸がしめつけられるようだ。
電子化が進んだ現代では見たことがないほど、棚には本やレコードが置いてあり、隅には映画でしか知らないジュークボックスが置いてあった。
初老の男性がドリップポットでコーヒーカップに丁寧にお湯を注ぎ、コーヒーの良い香りが脳を刺激する。
「私、ここに来るまで自分が操り人形みたいって思ってた。でもね、音楽って不思議。
自分に寄り添ってくれたり突き放したり。まだまだ空っぽだけど、ちょっとずつ満たされていくの」
「響介くんは毎日どんなこと考えてる?」
僕の心臓は橘に握られてるみたいだ。
柔らかくて熱くて甘い。
「俺は... 僕は最近自分の身体が機械のように感じる。
毎日決まった時間に起きて、学校に行って授業を受けて、同級生と他愛無い話をして家に帰る。
慣れない家事をして勉強して、流行りの音楽や動画を観ながらいつの間にか寝る。
そんな毎日を過ごしてたらさ、毎日が作業みたいに見えてきて。
イメージの中の僕は全身鉄でできてて、塗装なんかなくて鉄が剥き出しなんだ。
顔はツルッとしててのっぺらぼうでさ、腕が4本あるんだ。それで、毎日の会話とか勉強っていうのがベルトコンベアーで運ばれて来て、僕はその4本の腕をぶん回したり、時には繊細に動かしたりしながら流れてきたものに対応して流す。腕を動かすたびにガシャガシャうるさくてさ。
もう何にも考えられないんだ。
だけど、今日はすごかったな」
「歌おう」
「え?」
「そんな気分の時は歌おう」
「歌なんて歌ったことないよ。それに今日聴いた曲覚えてないし」
「今、毎日流行りの音楽聴いてるって言ったでしょ。それでいいじゃん。わたしも歌うから」
僕は彼女の澄んだ瞳に逆らえなかった。
息を大きく吸い込み毎日聴いている歌を歌った。
自分ってこんな声だったんだ。
全然音も合わない。
橘の声も聴こえてきた。
なんだ、広角の角度なんて気にしなくても笑えるじゃないか。
歌い終わったあと、僕はなんだかおかしくて笑いが止まらなかった。
これが『楽しい』か。「僕、歌すっごい下手だ。あーぁ。ちゃんと人間なんだなぁ」
僕はそれからほぼ毎日橘と一緒にBEATSに行ってレコードを聴くようになった。
コーヒー代がない日は二人で公園で音楽の話をした。
音楽っておもしろい。
好きとか嫌いとか、気持ちいいとか、悲しいとか、全然言葉で語り尽くせない。
学校の友達にもレコードの話や昔のバンドが作った音楽の話をしたけど、そんな化石みたいなものには興味がないと一蹴された。
母さんにも話したら、「そんな時代もあったわね」と悲しそうに笑った。
母さんの表情を見て、僕は子どもの頃に大切にしまっていた「瑠璃色の箱」のことを思い出した。
祖父からもらったチョコレートの箱で、開けるたびに甘い香りがして僕を幸せにしてくれた。
うちでは祖父は変わり者でいつも腫れ物扱いされ、書斎に隔離されていた。
僕は祖父のことが好きで、親の目を盗んではよく会いに行った。
しかし、ある日突然祖父はいなくなり、それ以来あの箱も書斎も蓋をして開けることはなかった。
僕は自分を暴きたい。
そして、もっと橘と仲良くなりたい。
西陽が差す夏の庭を背に、僕は意を決して書斎に入った。
ずいぶん埃っぽくはあるけれど、当時のままの書斎に思わず息を呑んだ。
書斎には大量の本と一緒にチェロケースが置かれていた。
そうだ、祖父は音楽が好きな人だった。
僕は祖父の演奏するチェロを聴くのが好きだったんだ。
僕はずっと前に音楽と出会っていた。どうしてそんな大切なことを忘れてしまったんだろう?
埃をかぶった本棚の端にあの箱を見つけ、震える手で開けた。
箱を開けたらそこにはガラクタが入っていた。
チョコレートの甘い香りはもうしない。
綺麗なお菓子の包み紙や、トンボのバッジ。
使い古されたマッチ箱。
間違いなく僕の宝物だったものだ。
楽しかった思い出も、自分の心を満たしてくれた大切なものも忘れたくないから箱にしまったのに、
いつの間にか触れたくないものになっていた。
僕はいつからこんなに心を見失ったのだろう。
箱の中をよく見ると、そこには見覚えのない紙の切れ端があった。
”ケースの中”と書かれた紙を見て、急いでチェロのケースを開けた。
ケースにチェロはなく、数枚の家族写真と一緒に一枚のレコードが入っていた。
レコードレーベルを見ると、そこには祖父の名前が印字されていた。
そして手書きで”響介へ 自分を大切に”と書き込まれていた。
翌日、僕は橘に見つけたレコードのことを話した。
彼女は目を輝かせ、僕らは放課後BEATSでレコードを聴く約束をした。
僕はなんだか居ても立ってもいられない気分で心臓が熱くなるのを感じた。
『ワクワク』なんて言葉は滑稽かもしれないけれど、本当にそうとしか言い表せない。
「藤城、放課後ちょっといいか」夕暮れの職員室で今後の進路について書かれたマニュアルを渡された。
そこには進学可能な大学や、目標とすべき企業、自分の適正について事細かに記載されていた。
僕はマニュアルに軽く目を通し、”幸福な未来”を机にしまった。
僕は足早に向かいながら、彼女のことを想った。
橘はきっといつもポケットに入れているビー玉を眺め、学校では見せないような好奇心旺盛なあの顔で待ってくれているだろう。
早く彼女に会いたい。
BEATSへ向かう途中、何やら人が騒々しく行き交っている。
何かあったのだろうか。
顔を上にあげると、時が止まったみたいだった。
僕は眼前に広がる景色を、受け入れることができない。
いつもの見慣れた僕らの居場所が燃えていた。
黒い煙が空まで立ち込め、視界が悪い。
これは本当に現実なのだろうか。
彼女の姿を探すも、人だかりで近づけない。
視界の端で手を振る人物がいた。
僕が毎日のように学校で昼ごはんを一緒に食べていた、”友達”がそこにいた。
「響介、お前のせいだ。音楽聴いて感情がどうのとかでかい声で話してさ。
みんな我慢してんだよ。頑張って気持ちを閉じ込めて、その上でマニュアルが正しいって理解してるんだ。
それなのにお前はさ、自分しか見えてないよな。どう?
居場所が燃やされた感情は。どうせ”怒り”か”悲しみ”だろ。お前は特別じゃないんだよ。
勘違いすんな。目障り。ただそれだけ」
「それだけって…」
「お前だけずるいよ」
そう言った友達の顔は、ひどく悲しそうに見えた。
僕はすぐにでも彼女を探しに行きたいのに、動くことができなかった。
その後、僕たちは近くにいた警官に保護された。
精神状態が不安定とされ、学校、保護者の判断で政府が管理する、「未成年感情更生施設」に送られた。施設に着くと、四畳くらいの小さな部屋に入れられた。
部屋には布団一式とwell-beingマニュアルしかなく、監視カメラが設置されていた。
僕の足首には見慣れない装置が取り付けられた。
足枷のように重い。
施設や装置については、部屋に備え付けられたAIから淡々とした説明があった。
この施設では未成年をより良い人間に成長・更生させるために、足首につけられた装置でバイタルデータを随時送信し、監視カメラで顔の細かい筋肉の動きや眼球の動きを読み取って、感情の動きを検知しているらしい。
それら全てのデータが正常な値になったら、この施設から出ることができるようだ。
施設では毎朝5時に起きて運動場を10キロ走り、大声で自己紹介をして、更生施設に来た理由を懺悔した。
「私は人間の作った音楽を聴き、マニュアルに書いてある感情表現に疑問を抱き、過度な感情に固執しました!そして周りにも過度な感情を抱くように強要しました!」
「なぜだ!」
「感情には科学的な数値では表せない多様性があり、管理されることに違和感がありました!
それに、心が豊かになることはいいことだと思い、周りと共有することでより生活が良くなるのではないかと考えました!」
「それにより何が起こった!」
「それにより、僕の友人が放火事件を起こしました。そして、僕の大切な人が死んでしまったかもしれません!悪いのは全て僕です!」
「かもじゃない!向き合え!声が小さいぞ!もう一度!」
「僕のせいで!僕ガッ…」
声が枯れるまで繰り返し同じことを叫んだ。
懺悔が終わったらwell-bengマニュアルを大声で音読した。
そして4時間の睡眠を経て、また同じ朝が始まる。
最初は起伏が激しかった僕のデータも、日を増すごとに一定に、正常になっていった。
「藤城くん、君はやればできる子だ!お母さんを大切にな」
施設を出たのは、一月の寒い日だった。迎えにきた母親が泣いていた。
「母さん。なぜ泣いてるの?ここは『喜び』だよ。ほら、口を横に広げて口角を限界まで垂直に持ち上げるんだ。俺、治って帰ってきたから。もう大丈夫だよ。本当にごめんなさい」
僕は来週からの学生生活復帰へ向けて、新しい筆記用具を買い揃えるために街へ向かった。
生まれてからずっとここで育ってきたのに、どこか知らない街みたいだ。
帰り道、僕は見慣れた道を歩いていた。
急に身体が震えた。見上げると、そこはかつて喫茶BEATSがあった場所だった。
何事もなかったかのように更地になっている。
僕はしばらくその更地を眺めて、帰ることにした。
何もかも失ってしまった。
僕は眉をひそめ、唇を強く噛み、綺麗な夕焼けをじっと見つめた。
そうすると、目がじわじわしてきて涙が滲んだ。これが”悲しみ”か。
「響介くん」
聴き覚えのある声だ。
もう二度と聴けないと思っていた。
僕は思わず振り返った。
整った顔に目の下と口元にある特徴的な二つの黒子。
間違いなく橘サキだった。
「どうして君が…」
「響介くん、手を出して」
彼女はポケットからゆっくりと手を出し、僕の手に煤にまみれた黒い球を置いた。
手には生々しい火傷の跡が残っている。
「これって…」
指で煤を拭うと、見覚えのある輝きが現れた。
さらに全体を磨くと、そこには彼女の美しい宇宙があった。
「私、今はもうマニュアル通りの笑い方しかできないけれど、あなたと過ごした時間が好きだったの。だからどんなに壊されても、また自分の心で笑うわ」
確かに僕の心は特別じゃない。
本当は自分の感情は単純で、データで全て表せるのかもしれない。
だけど、それはつまらない。
大切なのはそんなことじゃない。
今、僕が何を感じて、どうしたいか。
君のために、僕のために何ができるか。
「歌おう。君と歌いたいんだ」